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Chapter T

シンデレラは眠れない  12


一真の帰国は29日の夜。
紛らわしい言い方は、彼がいる場所と日本ではかなり時差があるせいだ。

30日は有給を取ることにした梨果だが、知らせを受けてから2日間は通常通り仕事をした。例年ならまだ最後の追い込みをしている最中に自分だけが休むのは何だか気が退けたが、それでもせっかくの皆の好意をありがたく受けることにしたのだ。
「それじゃ、社長、皆さん、今年もお世話になりました。良いお年をお迎えください」
一足先に年末の休みに入る梨果は帰宅に際して皆に挨拶をする。
「おお、梨果っぺ。ダンナとゆっくりしてこいや」
年末休暇の入りが遅い分、年始は6日まで休みだ。それに土日祝日を加えて、梨果には都合11日間の連休となる。
まだ翌日も仕事に出る営業や社長夫妻に気持ち良く会社を送り出された彼女はそのまま彼のマンションに戻り、簡単に掃除を済ませた。
「よし。こんなものでいいか」
その後二十四時間営業のスーパーに行き、普段は買い置きがないビールとちょっとした料理を用意すると、彼の帰りを待つ間に年越しに必要なもののリストを作り始める。
いつもなら自分一人分、年越しも正月も適当に済ませていたけれど、さすがに今年はそうもいかない。
年越しにはカップ麺ではないそばを作りたいし、元日には雑煮や簡単なおせちも欲しい。
そんな風に思いながら新聞に入っていた広告をチェックし、準備する食料品や日用品のメモ書きをしていた彼女の手がふと止まる。
「何で私、こんなに浮かれているんだろう」
目の前のメモに並ぶ文字をじっと見つめながら、梨果は自分の中に芽生えた気持ちに戸惑う。

ずっとひとりでいいと思っていたのに。

一人で生きていくことに一抹の虚しさを感じることはあっても、それを上回るだけの自由と気楽さを手にすることの方を優先してきたつもりだ。自分が恋人をもつことのリスクはあまりにも大きく、何かあった時に受ける精神的なダメージを考えると安易な真似はできないと思ってきた。
勿論、結婚を考えるなど以ての外だった。
幼い頃から両親の苛立たしい結婚生活を間近に見てきた彼女は、子供心にも世の中にあれほど理屈に合わないものはないのではないか、と思っていた。それは長じて姉の結婚が破綻する過程を経て確信へと変わり、彼女の中に結婚に対する忌避を植え付けたのだ。
この年になり、世間の荒波に揉まれて多少は酸いも甘いも?み分けることができるようになった今では、夫婦の仲は本人同士の好き嫌いという綺麗ごとでは済まされないことも分かってはいる。その上当事者だけでなく家や親族が絡んでくると、話はもっと複雑になることも十分承知しているつもりだった。
だが、一真との出会いはそういったものを一時棚上げにして、結婚というものに向き合ってみてもよいかもしれない、という期待のようなものを抱かせた。たったの一週間で決断をさせた押しの強さはいうに及ばずだが、それ以上に彼の持つ何かが梨果の心に触れ、さざ波を立てたのだ。
それが何だったのか、未だ彼女にもはっきりとは分からない。
ただ、これ以上この関係に慣れ合ってしまうと、もしも今後彼との別れが訪れた時に自分が取るべき道を見失ってしまうような気がして怖かった。
「どうしたいんだろう、どうすればいいんだろう、私」
突然湧き出した思いにぼんやりとしていた梨果の耳に、玄関のドアが開く音が聞こえてくる。はっとして時計を見るともう11時を回っている。一真が帰ってきたのだ。
「ただいま」
リビングの床に座り込んだまま声がした方を振り返る。
そこにあったのはひと月ぶりに目にする夫の姿だ。ただ、こんな真冬なのに場違いなくらい真っ黒に日に焼け、出かける時にはなかった髭がその口元に蓄えられている。元から精悍な顔つきの男だったが、それらが加わったことで前にも増して男臭くて荒々しい風貌になっていた。
自分を見上げたまま動かない妻に、彼が髭を生やした口元を撫でながら苦笑いを浮かべる。
「梨果?」
「お、お帰りなさい」
それを見た梨果は慌てて立ち上がるとリビングの入口に立つ一真の方に歩み寄った。
「そんなに人相が変わったか?」
「ううん、ちょっとびっくりしたけど」
まじまじと自分を見ている彼女の言葉を聞いた彼がにやりとした。ただ、今の彼の容貌ではその笑いさえ凄みを帯びる。
「あっちではこれがあった方が何かと重宝するんだ」
彼が担当する中東の原油の産出国はほとんどがアラブ文化圏で、その多くはイスラム色が強い地域にある。今でこそ、どこにいっても冷房が完備されたオフィスで相手側のビジネスマン相手の商談だが、一昔前の時代には砂漠の中の都市に族長を訪ねたりしたこともあったそうだ。
「俺たちの前の世代なんかは、湾岸戦争みたいな紛争に巻き込まれて危ない目に遭った奴らも結構いたってことだ。俺が会社訪問に行った時に応対してくれた大学の先輩もそうだったらしいが、入社希望の学生を前にして開口一番、『お前ら、砲撃や銃弾の中をかい潜って商談に行ってもいいというくらいの度胸と覚悟はあるんだろうな』だったからな」
さすがにラクダに乗って砂漠を旅するようなことはないらしいが、それでも車と飛行機を乗り継いで移動するだけで、これだけ日焼けをしてしまうのだという。
「途中、トランジットでどこかのホテルに一泊して身ぎれいにしてくれば良かったんだが、とにかく早く帰りたかったからな。一番短い時間で帰国できるルートを探したら、乗り継ぎ乗り継ぎで機中泊になった」
一真はそう言って笑いながら梨果を抱きしめた。
「やっと帰ってきたよ」
「うん……お帰り」
腕の中で、梨果は久しぶりに彼の香りを吸い込んだ。それはいつもより少し埃っぽくて汗臭いが、紛れもなく彼のものだ。
しばらくは互いに無言のままで抱き合っていた二人だったが、やがてどちらからともなく唇を重ねる。その後抱擁を解いて彼から離れた梨果は、顔を赤くして照れた笑いを浮かべた。
「あ、お、お風呂できているから行ってきて。その間に何か食べる物を用意するから」
「分かった」
一真が着替えのためにリビングを出て行くと、梨果はほっと息を吐いた。
今のは一体なんだったんだろう?
まるで久々に再会した恋人同士が交わすような行為。
「いや、実際夫婦なんだけどね」
梨果は熱くなった自分の頬を両手で包み、ぶるぶると首を振る。
互いを慈しみ合うように穏やかで、あまりにも自然な所作をした自分に驚きを隠せない。恋愛感情もなく、ただ利害が合うというだけで結婚した彼との関係がこんな風になるとは思ってもいなかった。
これではまるで本当の新婚夫婦のようではないか。
「考え過ぎよ」
あの抱擁も、彼にとっては久々に会った「妻」への挨拶のようなものだろう。そう考えた梨果は我知らず苦い笑みを浮かべる。そして一真のために準備していた軽い食事を出すためにキッチンへと入って行ったのだった。


その後、ベッドに入った一真は呆気ないほどすぐに眠ってしまった。
後で聞いたところでは、どうやら彼は時差ボケを防止するために軽く24時間以上も眠っていなかったそうだ。
ベッドに引きずり込まれた時にはどうなることかと危惧した梨果だったが、自分を抱き枕代わりにしてぐっすり寝入った彼の髪を梳きながら、クスリと笑い声を立てた。
「あなた、やっぱり髭はないほうがいいわよ」
浴室から出ていた一真はたくわえていた髭を剃り落とし、さっぱりとした表情をしていた。季節外れの日焼けはどうにもならないが、それでもやはり見慣れた顔の方が良いと思う。
多分それは正月に会う予定になっている彼の両親や兄弟、そして甥姪たちも同じだろう。

二人は先ほどリビングでビールを開けながら、これからの休みの予定を擦り合わせた。
大晦日まではここで正月準備をして、元旦は彼の実家へ。そして残りの休みはどこかのんびりできる場所があればそこで過ごそうという話になっている。
梨果もそれに合意して、近場で今からでも宿を頼める温泉でも探そうかという気分になっていた。
だがそんな彼らに正月早々、降って湧いた災難のような話が持ち込まれることになる。




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